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2013年 08月 04日
この作品は『バンカラ警官の雑記帳』の続きです。 http://marine1800.blendmix.jp/essay/cop.html 『グッドバイパゴダ』 どうしても忘れられない映画館がある。といってもいつも外から眺めるだけで中に入ったことは一度もない。子供の頃は母が運転する車の窓からそれを見た。休日になると焼きたてのフランスパンと茹でたカニを買うためにその前を通ってフィッシャーマンズワーフまで歩いて行った。友人の家へ行くときに乗ったストックトンストリート30番のバスは映画館のすぐそばを荒っぽい運転で通り越していく。定員オーバーのバスに閉じ込められ、人いきれで吐きそうになるのをこらえながら遠ざかる映画館を見ていた。警官になってからは毎晩パトカーでその周辺をパトロールし、街灯の明かりが届かない映画館の裏側をじっと見つめた。しかし何度来ても面白いことは何も起こらなかった。どれもこれも簡単に忘れてしまうような出来事ばかりである。自称ストリートハンターの血が騒ぐような獲物はここにはいなかった。それでもこの映画館のことが頭から離れない。そこで見た色、聞いた音、どれほど月日が流れても鮮明な画像となって甦ってくる。 場所はパウエルストリート1741番地(この周辺のパトロールを受け持つまで、ずっとコロンブスアベニューにあると思っていた)、時々、パートナーのケリー巡査と一緒にランチを食べた『Washbag』から一軒置いた隣の建物。これがチャイナタウンで一番大きな映画館『パゴダパレス』である。 (WashbaghaはThe Washington Square Bar and Grillの略称) 私がパトロールをしていたころのチャイナタウンは、どこもかしこも「魔都」という言葉が似合う上海の雰囲気を漂わせていた。その中でも、私にとって一番奇妙でエキゾチックな場所、それがこの映画館だった。外壁には映画のポスターや劇中の名場面、中国人俳優の顔写真が貼りだしてあったが、私の知っている中国人とは着ている服も顔つきも、何から何まで全く違う。体にぴったり張り付いたきらびやかなロングドレスを着た女優。極端に派手な化粧のせいで中国人に特有の小さな低い鼻がアメリカ人のように前方に突き出して見える。写真の中の俳優たちはいかにも作りましたというような表情で微笑んでいた。薄汚れた壁に並べた原色だらけのきらびやかな衣装をまとった女優の写真。このアンバランスに加えて、意味不明の中国語が書いてある。英語のアルファベットしか知らないアメリカ人には、縦と横の線を組み合わせた模様にしか見えない。 「これは暗号だな」 ケリーは時々そんなことを言った。 パゴダは時々、中国のオペラも上演した。客寄せのために建物正面のどこかに仕掛けてあるスピーカーのおかげで、外にいても歌を聴くことができた。しかし心が和むような歌声ではない。ハイピッチでまくし立てる歌手の声は悲鳴なのか猫の鳴き声なのかわからないこともあった。その声の合間に入るけたたましく鳴り響く打楽器の音。金属の皿かコップを叩きつけているように聞こえる。金属音の余韻に重なるカスタネットのような連打音。それが止むと短調のメロディーで細長い音が切れ目なく続いていく。この音はバイオリンだろうか、それとも二胡だろうか。時々、弦をはじくような音がするが、これはピアノよりももう少し高音でチェンバロかツィター(ドイツの弦楽器)の音色に似ている、とあれこれ想像しながら聴いていた。しかし、スピーカーから流れてくる音は、私の精神を逆なでする奇妙な音ばかりだった。後になってわかったことだが、アイルランド系の警官はバグパイプの音を聞いても耳障りだとは思わないが、ケルト民族の血が流れていない者からすれば、その音はずいぶんとけたたましい嫌な音に聞こえるようだ。私が中国の音楽を聴いたときに感じたこともそれと同じだと思う。 現在、この映画館はシャッターが下り、廃屋に近い状態になっている。その東に広がるワシントン広場には毎年大勢の観光客が訪れ周りの風景を写真に収めていく。彼らがカメラを向けるのは、たいてい東の方にわずかに見えるコイトタワーか、広場の北に威風堂々とそびえるセントピーターアンドポール教会である。誰もパゴダを写さない。 ワシントン広場は、『ダーティーハリー』の映画やサンフランシスコを舞台にした古い刑事ドラマにも度々登場するが、その公園のすぐ近くにありながらパゴダパレスが映画の画面に現れたことは一度もない。1971年に公開された『ダーティーハリー』では、サンフランシスコ市警のベルジェットレンジャーヘリが上空から連続殺人鬼スコーピオンを見つける少し前の場面で、犯人にライフルで狙われている男が座っている場所がワシントン広場である。5作目の『ダーティーハリー』では、ガス・ウィラーと名乗る男が焼身自殺をする場所としてワシントン広場が使われている。残念ながらパゴダには出番が回ってこなかった。 過去40年の間に、数えきれないほどたくさんの人がパゴダを見ている。ここで映画を見た人、その横を通り過ぎた人、遠くから建物だけを眺めた人。すべてを加えたらものすごい数になるだろう。しかしその中で、一体どれくらいの人がパゴダに興味を持ち、その歴史を知っているだろうか。おそらくその数はゼロに近いと思う。通行人を手当たり次第に呼び止めてこの映画館について尋ねても、返ってくる答えは、「パゴダ? ああ、知ってるよ。ワシントン広場の向かいにある白い建物だろ。あそこはもうだいぶ前につぶれたよ」 ほとんどの人にとって、パゴダパレスはその程度の認識しかないようだ。ここに幽霊でも出るというのなら話題にもなるだろうがパゴダでは何も起こらない。チャイナタウンのはずれに見捨てられたように建っている古い映画館。やがて人々の記憶からも風化して消えていく。 パゴダパレスは1907年、「ワシントンスクエアシアター」という名前で誕生した。ミス・パゴダ――私はこの映画館をそう呼んでいる。今年で104歳になる建物には「ばぁさん」という名をつけた方がよいのかもしれないが、どれだけ古くなっても「ミス」の呼び名を変えるつもりはない。 ここができた当時はヴォードビルの劇場として人気があり、「ワシントンスクエアシアター」の名前はサンフランシスコ中に知れ渡っていた。天才テノール歌手と言われたイタリアのエンリコ・カルーソが、この劇場で歌ったという話を聞いたことがあるが、私には信じられない。1906年の4月、カルーソはミッションストリートにあるグランドオペラハウスで上演された歌劇『カルメン』でドン・ホセ役を演じた。公演期間中はパレスホテルに滞在していたが、4月18日午前5時13分に起こった大地震でホテルのベッドから放り出された。大慌てでホテルを飛び出し、町を抜け、ボートに飛び乗りオークランドまで逃げていった。「もう二度とサンフランシスコには戻らないとカルーソは固く誓った」と何かの本で読んだことがある。私はこの話の方を信じているが、本当のところはどうなんだろうか。真実はパゴダが知っている。しかし、黙して語らず。パゴダの口を割らせることは、どんなベテランの刑事でも不可能だ。 1920年になると、『ミラノシアター』と名前を変えてトーキー映画を上映するようになった。その頃からロードショー劇場(新作映画封切館)として知られるようになったが、1936年と1937年の火事で建物の大部分が焼け落ちてしまった。1937年4月、建築家のアレキサンダー・カンティンの協力を得て、大規模な改築工事が行われ、その年の暮れ、『パレスシアター』の名で、新作封切館兼セカンドラン劇場として生まれ変わった。 (セカンドラン;、公開が終了した封切り映画を再び上映すること) 昼はカンフー映画、夜は西部劇を上映するようになったのは、たしか1960年代の後半からだったと思う。映画が東洋から西洋に切り替わる頃、映画館の前にいると面白い光景を目にすることがあった。アメリカ人と中国人がすれ違いざま、お互いの手を打ちあっている。警官がシフトを交代するときに「後は頼むぞ」という代わりに相手の手をタッチするが、それと同じことを見ず知らずの客同士がやっている。パゴダは平和な映画館だった。 時々中国オペラの公演もあったが、劇場のオーナーはあまり金のかかるオペラ歌手は呼ばなかったようだ。たいてい地元で活躍しているミュージカル俳優か、たまたまサンフランシスコに来ていた中国歌劇団を劇場に招き、歌手の歌が外にも聞こえるような仕掛けを施して客を集めていた。 60年代といえば、ヒッピー、マリファナ、シンナーが大いにもてはやされた時代である。ドラッグで幻覚の見える連中が巻き起こしたサイケデリックムーブメントはサンフランシスコ中に広まり、70年代になるとゲイの世界にも浸み込んでいった。アバンギャルドなファッションは彼らに言わせれば「魂を解放した自由な創造」ということらしいが、私には「薬物中毒による無茶苦茶な創造」としか思えない。 『ミラノシアター』が『パゴダパレス(釈迦の住む家)』と名前を変えたのはその頃である。パゴダのメインは中国映画だが、当時の流行に乗って、ブロードウェイミュージカルのパロディーやヒッピーとゲイで作った『ザ・コケッツ』という劇団の公演も行っていた。 しかし、絶頂期はいつまでも続かない。パゴダの景気がよかったのはここまでである。1980年ごろ、リノベイター(歴史的建造物修復家)として知られているアラン・ミッチャンがパゴダに目を付けた。彼は1930年代に流行ったアールデコスタイルの魅力をもう一度広くアピールしたいという願いから、パゴダの改築を始めた。そうして完成したパゴダはミッチャンの目的を十二分に満足させる出来栄えだった。しかし、物事は往々にして当初の予定通りにはいかないものだ。事態は早急に悪くなる――これは警官時代に嫌というほど経験したことだが、パゴダもその例にもれず何もかもが悪い方向へ転がって行った。 アールデコ建築は1980年代に若干の人気を取り戻したとはいえ、上映する映画が中国語のカンフー映画ばかりでは客足も遠のいていく。また文化の担い手がヒッピーからヤッピー(高学歴高収入の気取った人たち)に変わり、「サンフランシスコのマンハッタン化」に伴って、古臭いチャイナタウンよりも、近代的な高層ビルが立ち並ぶ美しい場所へと人々は流れていった。その頃のチャイナタウンはギャング同士の抗争がエスカレートしていた時代で、映画でおなじみの銃撃戦も頻繁におこり決して安全な場所ではなかった。そうした様々な要因が絡み合い、1994年、パゴダはついにその生涯を閉じたのである。 その後、パゴダを取り壊してそこにレストラン付きの高級コンドミニアムを建設しようという話が持ち上がった。しかし、こういう場合に必ず出てくる「ノースビーチのダイハード(頑固者)」と呼ばれている都市プランナーたちの反対にあい実現には至らなかった。ところが今年2013年、新規路線の建設を進めているメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティがパゴダの下までセントラルサブウェイ(地下鉄)の路線を伸ばすと公言した。そのニュースが流れた途端に、今までパゴダのことなど見向きもしなかった人たちが、「取り壊し反対」運動を始めたが、工事はすでに始まっている。歴史的に価値がないと見做されたパゴダは完全に撤去され、そこには新しい地下鉄の出入り口ができるだろう。 進歩という怪物にパゴダが食われていく。それを目にしながら私にはパゴダを助けてやることができない。 またひとつ、私のサンフランシスコが消えていく。 (鉛筆画) ------------------------- ベルジェットレンジャーヘリ:戦闘機の製造メーカーベル社が開発したヘリコプター。ダーティーハリーが撮影された1971年、サンフランシスコ市警にはまだこのヘリコプターはありませんでした。
by prairycat
| 2013-08-04 14:03
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